「なんとなく」金沢へ
先日、金沢に行ってきた。人生で2回目。…とはいえ、初回はほとんど記憶にないから、
実質“初めての金沢”だった。
今回の旅の目的は、観光ではなかった。
「じゃあ何しに行ったの?」と聞かれると答えるのが難しいけれど、
ただ、行ったことのない場所にふらりと行きたくなった。
なんとなく、空気を変えたかったのかもしれない。
それに、金沢には知り合いもいる。
そんな、ちょっとした気持ちで訪れた金沢だったけれど、
帰ってきた今、「行ってよかった」と心から思っている。
最近、旅に出るたびに、視界がぐっと開ける感覚を覚える。
いわゆる“悟り”のようなものが増えてきて、
自分でもちょっと照れくさいのだけれど、
まあ、うん、いいかなって思っている。
自分の「好き」で生きる友人のこと
今回の旅に付き合ってくれたのは、ある友人だった。
その人が、とにかく素敵だった。
まず、考え方がとても成熟している。
一見すると、周囲が羨むような人生を送っているように見える。
でも、話を聞くたびに、その裏には若いうちからたくさん悩み、
たくさん迷ってきた足跡があることがわかる。
そして何より、人に対してまっすぐで誠実なのだ。
自分という軸を持っている人って、こういう人のことを言うんだろうな。
背中がすっと伸びていて、でもどこか柔らかくて、
見ているだけで、自分もこうありたいと思わせてくれる。
その人は、選べるものはすべて「自分の好き」で選んでいる。
服のセンスも、その日の持ち物も、話す言葉も。
一貫していて、ブレがない。
私自身はというと、「好きなもの」よりも「好かれそうなもの」を選んでしまいがちだ。
無意識のうちに、誰かの期待や視線を意識してしまう。
それが悪いとは思いません。むしろ、そうやってバランスを取ることで生きやすくなる場面も多いです。
でも、「好きなものを、好きなまま選べる」って、
実はとても強くて、難しくて、、、。
でもその人は、絶対的に“自分の感覚”を信じている。
それが本当にかっこよかった。
もちろん、思考回路が謎すぎて笑ってしまうようなこともある。
でも、そういう不思議さも含めて、その人の魅力だと思う。
カフェでも、古本屋でも、夕飯のメニューでも、選ぶものにブレがない。
「一貫性」って、言葉にすると硬いけれど、
“ぶれない”って、信頼できる要素の一つだと思う。
だから一緒にいると、自分ももう少し、自分の「好き」に素直でいたいなって思える。
七尾への寄り道
そんな友人が「七尾に行こうよ」と言った。
私は、金沢でやりたいことも早々に終えていて、
特別な予定もなかったので、素直に「うん」と言って一緒に電車に乗った。
金沢の古本屋で買った『菜根譚』を読みながら、
1時間半ほど、のんびりと揺られる電車の中。
外の景色が流れていくのをぼんやり見ながら、
文字と言葉の世界に入り込む時間もまた、贅沢だった。
車窓から見えた田園風景がとにかく美しかった。
一面に広がる水田は、まるで湖のようだった。
都会に住んでいると、田んぼを見ることはあっても、
あれほどのスケールには出会えない。
空は驚くほど低くて、雲が近い。
まるで、風景画の中に入り込んだような感覚だった。
静かな町に残る震災の傷跡
七尾に着いてからは、海鮮を食べたり、カフェに入ったり。
ただそれだけでも十分満ち足りていたのだけれど、
そこで思いがけない光景を目にした。
震災の爪痕が、そこかしこに残っていたのだ。
正直、七尾があれほどまでに被害を受けていたとは知らなかった。
調査済みの紙が貼られた家、崩れた塀、ビニールシートで覆われた屋根。
落ちた看板と、まばらな人の姿。
静かな町並みが、どこか痛々しくて、胸がぎゅっとなった。
特別な支援ができるわけではなかったけれど、
その風景を、ただ黙って見つめる時間がとても濃密だった。
何かを「する」わけではなく、ただ「居る」こと。
そこに身を置くことそのものに、意味があるような気がした。
心に増えた「大切な感覚」
今回の旅で、何か劇的に変わったわけではない。
でも、自分の心が確かに揺れた。
素敵な人と過ごした時間、心に響いた景色、想定していなかった現実。
そのすべてが、旅の一部として、今も心の中で静かに息づいている。
またひとつ、自分の中に「大切な感覚」が増えた気がする。
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